生麦事件
現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦
1862年9月14日
薩英戦争
1863年8月15日 – 17日
イギリス国内ではこの戦闘を単に「Bombardment of Kagoshima」(鹿児島砲撃)と呼んでいる。
薩英戦争って薩摩がイギリスに負けてたら、そのまま日本はイギリスの植民地になってたよね。
同じ時代にインド、清国、マレーシア、シンガポールがイギリスの植民地になってるから、
イギリスの常套手段だよね。難癖つけて大砲ぶっぱなし、賠償金とって、国ごとだましとる
イギリスの領土的ピーク
イギリスの最盛期は1850年代~1910年代頃です。19世紀後半から20世紀初頭にかけてです。
以下のように領土的・経済的に絶頂を迎えました。
領土的最盛期
1880~1920年頃(大英帝国の最大版図)
領土拡大がピークに達し、領土面積は約3500万平方キロメートル、世界の陸地の約1/4を支配。
支配地域はアフリカ、アジア、アメリカ、オセアニアに広がり、「日が沈まない帝国」と呼ばれる。
特にヴィクトリア女王(1837年~1901年)の治世後半からエドワード7世時代(1901年~1910年)までが中心。
19世紀(1800年代)のイギリスは「大英帝国」として絶頂期にあり、多くの植民地を支配していました。主な地域を挙げると以下のような国々です:
– **インド**(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ)
– **オーストラリア**、**ニュージーランド**
– **カナダ**
– **南アフリカ**、**ケニア**、**ナイジェリア**などのアフリカ諸国
– **エジプト**、**スーダン**(スエズ運河の利権も確保)
– **香港**、**マレーシア**、**シンガポール**などアジアの一部地域
– **カリブ海諸島**(ジャマイカ、バルバドスなど)
当時のイギリスは「日が沈まない帝国」と呼ばれるほど広大な植民地を持っていました。
19世紀当時、現在の中国エリアである清国(清朝)はイギリスの正式な植民地にはなりませんでしたが、**半植民地状態**に追い込まれました。
特にアヘン戦争(1839–1842、1856–1860)以降、清国はイギリスを含む列強諸国に多くの**不平等条約**を結ばされ、以下のような状況が生じました:
– **香港**:1842年の南京条約でイギリスに割譲され、植民地として支配されました。
– **上海**などの港湾都市:イギリスをはじめとする列強が**租界**を設け、実質的に支配下に置かれました。
– **貿易の自由化**:清国はイギリスに有利な貿易条件を強制され、経済的に依存する形になりました。
清国自体は独立を保ちつつも、列強による経済的・軍事的な影響を強く受けた状態でした。
イギリスの経済的最盛期
産業革命後1850年~1900年頃に経済的に絶頂期に入り、工業生産・貿易で世界をリードしました。
世界最大の工業国・貿易国として君臨しました。。
産業革命の後19世紀半ば~20世紀初頭にロンドンは金融の中心地となりポンドは世界の基軸通貨となりました。
この時期、イギリスは軍事的、文化的にも影響力を持ち、多くの国がその法律、言語、制度の影響を受けました。
第一次産業革命
1733年から1840年付近までの第一次産業革命
産業革命のきっかけ
石炭の利用
重要なエネルギー源として石炭の確保
蒸気機関の発明と改良(ジェームズ・ワットなど)
鉄の生産技術の向上
農業革命による人口増加
労働力の増加
そして資本主義経済の発展が大きな要因です。
これらが組み合わさり、18世紀後半のイギリスで産業革命が始まりました。
蒸気機関の基本原理は古代から知られていましたが、実用化のきっかけとなったのは1712年にトーマス・ニューコメンが開発した「大気圧式蒸気機関」です。
この機関は鉱山の排水に利用されました。その後、ジェームズ・ワットが1769年に効率を大幅に向上させる改良型蒸気機関を発明し、産業革命の進展に大きく貢献しました。
第二次産業革命
おおむね1860年代後半ないし1870年代初頭から第一次世界大戦前(1914年)までの期間に
第二次産業革命が起こりました。
鉄道や蒸気船が発達し、鉄鋼業ではベッセマー法やジーメンスの平炉という大きな技術革新が起こった
石炭ガスの代わりに石油を使って革新を遂げたのはドイツのゴットリープ・ダイムラーであり、これが数年後には自動車に適用された
その後1914年に第一次世界大戦が始まり、イギリスの影響力は徐々に変化していきました。